毛利輝元の関ヶ原の戦いから学ぶリーダー論

企業は日々競争しながら永続する事を目指して、労使が協力して売上や利益の向上を目標としています。

そして企業目標を達成するには皆が団結し同じ方向で行動しなければいけません。

今回は毛利家の関ヶ原での敗北を参考にしながら現代の企業行動に生かせるヒントを考えていきたいと思います。

3本の矢で結束した毛利家

毛利元就が伝えた3本の矢の教えは、一本では折れる矢も3本であれば折れる事はないという皆の力の結束を伝えた毛利家の教えです。

元就公の教えとして、子である毛利隆元、小早川隆景、吉川元春たちは一致協力し織田信長などの戦国大名と戦い中国地方最大の大名として毛利家の勢力を順調に拡大させてきました。

しかし世が豊臣家から徳川家に移らんとするとき関ヶ原の戦いが起きます。

毛利家は隆元から毛利輝元に、小早川家は隆景から秀秋にそして吉川家は元春から広家と世代交代し、次第に3本の矢の教えが揺らいでいきます。

根回しの欠如したリーダー

石田三成から徳川家康に対抗できる大名として西軍の総大将に担がれた毛利輝元。

輝元は安国寺恵瓊の意見を入れて西軍の総大将になります。

毛利輝元は、五大老である前田家、上杉家と続々と家康の攻撃対象になっている状況を考えると次は自分ではないかという不安もあったはず。

輝元は恵瓊の誘いに乗ってしまいます。

現代社会でもそうですがリーダーが組織を動かしていく際大事な事は、有力者への根回しと強い行動力です。

毛利の場合の有力者の代表格は小早川秀秋と吉川広家です。

毛利両川体制といわれる、2つの柱ともいうべき小早川家と吉川家への協力を取り付けるための根回しは、毛利家を一つにしていくため必要な行為でした。

しかし毛利輝元はこの必要なプロセスをとらず、独断で毛利家が西軍に属する事を決めてしまいます。

信頼を喪失したリーダー

重臣に事前の相談もなく西軍の総大将になった毛利輝元。

特に強く反発したのが吉川広家でした。

広家は、毛利輝元では徳川家康に勝利する事はできないと判断し、黒田長政を通じて内応を約束します。

実際、広家は関ヶ原に出陣し、毛利軍の最前線に布陣しながら軍を動かそうとせずその結果、毛利軍は全く戦闘に参加しない事となります。

さらに小早川秀秋に至っては、東軍に内応し、西軍を攻撃する信じがたい行動に出てしまいました。

また西軍の総大将だった毛利輝元は関ヶ原の戦いに出陣せず大阪城に残るというリーダーらしからぬ行動をとります。

関ヶ原に出陣し最前線で戦った東軍の総大将である徳川家康とは違い、リーダーとは言えない行動をとってしまいます。

 

まとめ

どんな組織も勝利するためには部下となり動いてくれる人たちに同じ目的を持ちリーダーと共同歩調とってくれるために自分の行動に同意してくれるための根回しが必要になります。

毛利輝元の行動はおよそ勝利を目指して行動するリーダーとしてはありえない単独行動をとり、戦いが起きても戦場に向かう事もせず結果、家臣たちからの信頼を裏切ってしまいました。

強いリーダーであればあるほど、十分な根回しに加えて、組織の先頭にたって行動する行動力があってこそ大きい組織は動かせる事を毛利輝元の行動から学ぶ事ができます。